続・2010年の1984

ついにコミック10社会と言われる大手漫画系出版社が都に「都主催のアニメイベントボイコット」と言う形で反旗を翻し、やっと世間に知られる騒ぎになりつつある「青少年健全育成条例・改正案」騒動。

自分は過去の日記(http://d.hatena.ne.jp/mantovajin/20100312)において、この条例に反対の立場を表明しました。
理由は1:この条例が適用にあたっての範囲が広く少数の人間(メンバー非公開)による恣意的な運用がなされること。
2:その立法・審議過程において、あまりにも性急であり(法案の公開から審議・議決まで異例の短期間)密室性が高く(審議の内容が公開されない)パブリックコメントに代表される各方面の意見を聞くと言う過程を蔑ろにしている(パブコメの反対意見だけを墨で塗りつぶした上での公開)
3:肝心の児童を虐待・搾取から保護するための具体策が一切入っておらず、さらにこの規制を行なうことで児童の保護が効果的になされるとの具体的・科学的データが一切示されないこと。
4:法案の中にあるゾーニング(売り場の分類)は現行の出版流通側の自主規制において施行・運用が行なわれている物とほぼ同一であり、さらに都側が根拠とする「自主規制によるゾーニングが乱れている」と言う主張に関してこれも具体的なデータや根拠が示されないこと。

ざっとこれだけの問題点が法律に素人の私でもあげられます。

さらに今回の再度提出された改正案では問題とされる「どのような作品が問題となるのか」と言う点において文言が修正され、より曖昧に、適用範囲が広がって18禁以外の漫画・アニメにも適用出来るようになっています。より危険性が高まったと認識しています。表現の中での「現実の刑罰法規」に触れる行為に対し、審査会の判断のみで法を適用しようとしています。フィクションに現実の法を適用する、と言うことです。
参考:改正案第二条より抜粋
「二 漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、“刑罰法規”に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」

表現に網をかける行為は、基本的に「やってはいけない」と言うのが近代国家の原則であり、数多い表現者が血みどろの歴史を経てつかんだ民主主義の鉄則です。その中で、社会的な影響や弱者の保護などの「特別な」事情を鑑みて、主に表現側の自主規制と言うコントロールでバランスをとってきた経緯があります。それは全て表現・発言の自由が担保として存在する、と言う前提で行なわれてきたシーソーゲームでした。
しかし、今回の条例はそのシーソーゲームのバランスを破壊する物になりかねない危険性を孕んでいます。上の反対理由に挙げましたように、単なるゾーニングの強化にとどまらない運用を可能とする法案として成立しようとしています。
また、我々作家側が最も懸念するのが、問題があると審議会が判断した書籍の流通に対して圧力をかけることを具体例を明示せずに曖昧な形で提示していることです。これは恣意的な処分をかけるというプレッシャーであり、単なるゾーニングだけではない規制を考えていることにつながると解釈出来ます。

と、ここまでは一作家としての立場の懸念です。それではもう一つ、一漫画好きの立場としての懸念を具体例を示して表明したいと思います。
まずはこちらのリンク先をご覧ください。
http://bit.ly/e94u3Y
http://togetter.com/li/78280
ともに、漫画やアニメに対する表現規制を行政側に委ねた結果がどうなるかと言う実例です。こんなに身近な国で、表現規制のシミュレーション的な事例があったことを不勉強にして最近知りました。
韓国の例にしろ、台湾の例にしろ、共通しているのは建前が「健全な青少年の成育」を妨げるものという言い方で、表現に網をかけているところです。そしてその「審査」と言う規制が作家の発想を刈り取り枯らせていく様子まで見事に一致しています。この二つの例を見ても、規制派は規制の強化を望むのだろうかと言うことを問いたいと思います。
破壊された文化は二度と同じ姿を取り戻すことはありません。法律による規制とはそれだけの力があり、あっという間に文化を枯らす毒をも孕んでいるのです。それだけに取り扱いには慎重になるべき…と言うのが過去の歴史が教える教訓ではなかったでしょうか。我々は65年前に同じ愚行を目撃しているはずです。それだけに、6月の場合も含め都側の性急かつ密室的な物事の進め方には不信感をぬぐえません。
今回の都条例が同じ道をたどる危険性がないとは、とても自分には言えません。

そしてもうひとつ、何を子供に見せて何を見せないかと言う判断は親が持つべき重いものです。これを行政に委ねることは、親としての権利と義務を放棄することに等しいと考えています。不快な物を遠ざける自由も「表現・発言の自由」の中に含まれているはずです。その大事な部分に足を踏み入れる行為は、あってはならないことだと考えています。
私が行政に求めるのは創作者の規制ではなく、具体的な虐待・搾取される「実在」児童の保護です。なぜなら実効性があり緊急に必要とされるのはそちらの分野だからです。行政側の皆様にはその原点を思い出していただきたいと願います。